都市生活者の一人として、「昔の景色はよかった」と憧憬とともに思い出す景色があります。2023年3月15日
都市生活者の一人として、「昔の景色はよかった」と憧憬とともに思い出す景色があります。それらの映像の主体は空ですね。
秋の夕暮れ時、徐々に暮れなずんでいく群青の艶の落とし方を大きな空に描く景色を私はいつでも思い出せます。それはその場所に立つたびに思い起こすことです。あ、ここにはかつて、こんな空があったな、という映像が浮かんでくるわけです。私の部屋の窓から見渡す空も、随分と狭くなりました。神宮外苑に夏の夜を彩る打ち上げ花火は、警備会社の総本山ビルによって遮られてしまいました。夜景のガードでもしているのかもしれません。
そんな中でこの10年のうち最大の僥倖といえば、原宿駅と表参道をつなぐ駅前の歩道橋が撤去されたことです。ほんとうに見晴らす景色が良くなりました。今までいったい何の役を担っていたのか、その意義が全く不明なほど、撤去後に何の齟齬も生じていません。きっと当時、歩道橋建設で潤う業者や役人や自治体の責任者がいたに違いない、と邪推するほどです。
まったく昨今の都市の景観事情を嘆くことがあるとすれば、とにかく空が狭くなったことです。それは日本という国の、真の美しさを後世に継承する都市計画を構想できる人に全権を委譲できないから、ではないでしょうか。任命権者が万一失敗の時のリスクを取りたくないから、また利権を持つ人が利権を手放せないからでは、とこちらも邪推ですね。
どこかの都知事が、新しく建設する何某平米の広さを持つ建物は屋上に太陽光発電装置を設置しなければならない、と発声したのはどのような取り決めでしたか。返す刀で明治神宮が推進する神宮外苑の再開発では、立派に育った2000本あまりの青々とした大木を伐採する計画を許可しました。ものすごく矛盾した話で、そこになにかしら恣意的な何かがあったことを深読みしたくもなる決定です。
環境問題というか、東京都をどのように美しく、次の世代に継承するのかという哲学が破綻しているのは明らかです。街並みの美しさとして引き合いに出すのも気が引けますが、パリですよパリ。中心の目抜き通りに立つホテルの屋上にあるテラスに出ると、一面に建物の屋根が一定の高さに並んでいて、その景観はモンマルトルの丘まで見渡せます。東京の都市計画に絶望する瞬間ですね。だれか、真っ当な哲学に基づく、信念の人が為政者になってくれないでしょうか。こういう発言も、コンプライアンスやなんやかやで唇の寒い時代ですね。
かつて「最後は金目でしょ」と市民運動を揶揄した議員は、その議員にしてはまともな発言であったと私は思うのですが、さまざまな批判を浴び議席を失いました。ホントのことは言っちゃおしまい、という典型例かもしれません。ポピュリズムに威を借りたマスコミのやり口は、決して国を栄えさせるものではありません。
前回の国葬ではなく、前々回の国葬は吉田茂元首相を送るために執り行われたものでした。戦争で破綻した日本を武士道精神で踏み留め、遺憾なく魂の本領を発揮した、白洲次郎という稀代の知恵者を懐刀に抱き、戦後の日本を国際社会へ復帰させた功績は特に大でしょう。
「気骨ある人物」という人物評伝は、最近とくと目にしたこともなく、こと政治家に関しては寡聞にして知りません。大体AIですら、ひょうでんと入力すると票田と出るほどですから。AIの擦れ具合も大概なものですね。つづく