慶應義塾ニューヨーク学院 見学紀行①2023年4月26日
慶應義塾ニューヨーク学院 見学紀行①
4月上旬の年長父母講座で、会員ご父母全員に入試面接の心得(実践編)講座を執り行い、急ぎ足で渡米してまいりました。10日余り留守をしましたが、大過なく平穏に留守中の業務を遂行してくれた教職員のみなに深く感謝しております(良い会社を作るのって、それ自体が仕事ですね)。私は本当に運が良く、恵まれております。感謝しきりです。みなさんありがとう。
今回は、まだ現地を一度も訪ねたことのない、娘の進学した慶應義塾ニューヨーク学院を訪問し、「祥風祭」と称する学園祭を見学し、学校はもとより生徒たちの活動や日常生活のようすを見せていただくこと。そしてそのようすを、先々わが子の海外留学を考えるご父母にお伝えすること。また校長先生始め、寮のハウスマスターや日頃お世話になっている先生方、職員の方にお礼を申し上げること。さらに現地NY保護者会の役員の方や日本保護者会の方との懇親会で親同士の交流を睦まじくすることなど、目的は多々ありました。
そのついで、というのも言い訳がましくありますが、私の脳裏では、「いつかキューバに行ってみたい」という積年の念願が叶うことを期待したのです。
と申しますのも、日本からわざわざキューバに行くにはアメリカかメキシコを中継することになりますが、ニューヨークまで行く機会があるならば、少し足を延ばせばキューバはそれほど遠くありませんので。
ただし結論から言いますと、現在アメリカとキューバには国交がありませんので、一旦キューバに入国しようものなら、アメリカへの入国は極めて面倒かつ厳しい、ということで、キューバへの旅はお流れとなりました。
なぜキューバ? という問いに、万人の理解を得る回答をするのが難しいのですが、まず1950年代のバチスタ政権下のキューバは、アメリカの保養地として栄え、独特の文化、主に退廃性が強かったわけですが、それゆえカストロの出現により革命が起き、共産主義国家となった次第です。そのバチスタ政権下の文化がいまだに残っているキューバはぜひ体験してみたい、キューバンバンドのリズムや葉巻や、古びたアメ車や、007の映画でたびたび目にした光景は、私にとってはいつか絶対に訪れたいという憧憬の地だったのです。
しかし、そもそものきっかけはヘミングウェイです。小学生の頃、「誰がために鐘は鳴る」を読みふけった私は、さっぱり内容は理解できなかったのは当然ですが、自己愛の相克に悩む闘牛士に自分を重ねてみて、いやそれすらさっぱりわかりませんでしたけれども、小1からまねごとの小説を紡いでいた私には、自分はヘミングウェイを読んでいる、という事実が重要だったのです。
「老人と海」や「武器よさらば」など著作の多くをキューバの地で書いたその土地の風と匂いと風土そのものを体験したかったわけです。
今回はお流れとなりましたが、いつかは絶対に彼の地の大地を踏むぞ、という決意は変わりません。その代わりと言ってはなんですが、せっかく旅程を4日余分にとったものですから、フロリダ州のマイアミを訪ねることにしました。なぜマイアミ? マイアミもヘミングウェイと因縁が深いんですよ。
マイアミを南下するとメキシコ湾と対面するアメリカ最南端のさらに西の果てにキーウエストがあります。その地にもヘミングウェイの家があり、プールサイドには「ここを居とするために、最後の1セントまで使い切ったぞ」という意味づけで、生乾きのコンクリにヘミングウェイが埋め込んだ1セント硬貨が残っています。
ちなみに、ヘミングウェイ亡き今も、彼が地元の船長から譲ってもらった6本の指を持つ愛猫の子孫がいて、約30匹の猫は、6本指の特徴を受け継いでいるそうです。ね、会ってみたいでしょ?
で、彼の地を訪ねるために、キーラーゴからキーウエストまで5時間ほどのドライブをするかと考え、国際免許まで取ったのですが、なんとフロリダが暴風雨に見舞われておりましてね。道理で飛行機が揺れたわけだよな。
悪天候の中、キーウエストに続く海岸線に沿った片側一車線の長いハイウエイを、強風に巻かれながら進むのはいかにも危険でしょう。かつてハリケーンを避けるために建設作業員を乗せた列車が強風にあおられて海に落ち、491人が亡くなった事故もあったようです。
私が無理を押して出かけ、万一マイアミの海に果てたとしたら、それこそ「老人と海」ですからね、しゃれにもなりません。ということで、ヘミングウェイを辿る道はまたしても挫折です。いや、マイアミに着くまでにも一悶着あったのですがそれはまた今度。