神殿には次々と各人各様の願い事が読み上げられるのですが、2024年2月28日
神殿には次々と各人各様の願い事が読み上げられるのですが、私とて縁もゆかりもなく、たまたま同席することになった他人の願い事に耳をそばだてて聞くものではありません。
でも聞こえてしまいますので、聞くとはなしに聞いておりましたところ、「渋谷区に住みたる山下〇子42歳~良縁祈願~」というのが耳に入り、思わず顔を上げて人を探したい衝動が起きてしまいました。
あっちゃー!と本人も思われたでしょうか? ちょっと遅いんじゃないの?と私が思うのは大きなお世話で、だからこそ神さまにすがりたいわけで本日いらしているわけですからね。ただね、ご本人の心情を考えると、30名を超す群衆の中で、ごくごく個人的な心の叫びを開帳されてしまったわけですから、さぞかしトホホと。いや、あるいは怒りで紅蓮の炎が湧き起こっていたかもしれませんね。
神さまだいじょうぶかなぁ。ここにもコンプライアンスとか個人情報の取り扱いだとか、うるさいことが言われる時代になってきたのかなぁ、と私は心配になりました。
「明治神宮は個人の名誉や尊厳を甚だ軽んじている。謝罪とともに今後の改善を要求する」なんてことになりはしないか、はらはらする思いです。
ではもしもそんな事態になったなら、どう改善すればいいのでしょう? 「神の思し召したる所に住みたる伏字の者~、年齢は伏せる、祈願も伏せる~。次の者、同様に~・・・以上の者たちの祈願を奏上し~かしこみかしこみ願い奉る~」とかですか? 神さまもどこの誰がいったい何のお願いをしに来たのかさっぱりわからん、となりはしませんか?
だいたい神さまを相手にコンプライアンスを要求するような人を「バチ当たり」と言うと思うのですが、時代はすぐそこまでやってきているように感じます。
社会という集団の中で通すべき大事なものは、正義より妥協だと私は愚考しています。正義というものは、立場の相反する人から見たら「正義はこちらで向こうは不正義」だと思うでしょう。主義主張の上で正義なんてものは簡単に立場を入れ替えます。
個人主義や多様性を大事にすることが現代においては最重要課題、のように喧伝されていますが、なんだか住みにくい世の中にどんどん変化しているように思いませんか。もっと大らかに生きたい、と私は昔を思って嘆息します。白か黒か、で決着がつかないことが多いのが社会だと思います。失敗した判断があってもしょうがないじゃないか、すべては人間がしでかすことなんだから(みつをにおこられそうですか?)。
「悪意ある犯罪は厳しく取り締まる。しかし中間域のことは正義でなくゆるやかに判断する」というのが適切なように私は思います。なぜなら人間の判断力には限界があると思うからです。
「誰にとっても善」と判断することすら難しい社会状況下で、誰とも知らぬ特定の個人の正義に判断を全面的にゆだねたり、他人に価値観の共有を強要したりと、社会が硬直化しているのが2020年代ではないですか?