前回、社会のルールとこどものしつけについて話しました。2024年4月17日
前回、社会のルールとこどものしつけについて話しました。今回はルールを守った上での、心の自由のお話です。
横断歩道での注意点を例に話します。みなさんはお子さんに、横断歩道の渡り方についてどのように話して聞かせていますか? 「信号が青になるまで待ちなさい。青に変わったら横断歩道を渡ってもいい。赤の時は渡ってはダメ」。というふうにですか? それ間違いです。絶対に間違っています。
信号が青か赤か、なんてことは二の次の問題なんです。間違えてはいけない最大のポイントは、横断歩道を渡る時は、右方向からも左方向からも、走って来る自動車(最近では電動自転車やキックボードなども)が来ないことを確認することです。それから道を渡ることです。
私は毎日自動車を運転する者ですが、過去三年にさかのぼっても、歩行者信号が青に変わった途端に、走り出して横断する子どもは数え切れないほど目撃しています。しかし信号が青に変わってから自動車が来ないことを目視して確認する子どもを見た記憶がありません。停車中の自動車の横をすり抜けて走る二輪車は珍しくないです。死角から出て来る、そういう車に跳ねられますよ。
逆に言うならば、迫り来る車がなければ、自分で判断して道路を渡ってもいいのです。歩行者信号が青でなくても。安全を自分で確保できるならば。信号がない場所ではなおさらです。信号はあくまでも目安です。
別のたとえ話です。砂漠を突き抜けるが如く真っすぐに走る一本道を、自動車で進んでいたとします。見渡す限り、対向車も走っていない、歩行者もいない、砂漠の一本道です。唐突に、遠方に立つ信号機が近づいてきました。そして赤信号を灯しています。私は減速して停止線の手前に車を止めます。そこには横断歩道がありました。見渡す限りの直線道路の途中に、唐突に現れた横断歩道です。歩行者はいません。なぜここに横断歩道? 歩行者はもちろん、対向車も、後続車もいません。あたりには動物の気配すらありません。私は順法精神を発揮し、赤信号に敬意を示し、車を止めています。1分が経過しました。依然として横断歩道に近づく歩行者は現れませんし、私以外の生命の鼓動を聞くことすらありません。
静寂の中で、私は自分が法に支配されているだけの、自らの判断力を持たない無価値な人間に思えてきました。自分は何のために時間と人生を費やしているのだろう?
もしもそういう状態になったならば、私は信号が青に変わることを待つことなく、車を走らせ始めるでしょう。当然、十分に安全を確認して。
すると一体、そのような物陰がどこにあったのか不明ですが、一人の警官が目の前に現れ、私は警笛を吹かれ停車を命じられました。窓越しに警官は言いました。「信号無視ですね。免許証を拝見します」。私は素直に信号無視をしたことを認め、警官に反則切符を切られ、署名をし、後日反則金を納付します。私は道路交通法に違反したのです。警官は言いました。「私は物陰で、あなたの順法精神を確かめていたのです」と。なるほど。私は法に従います。しかし私はその時、赤信号と知りながら車を発進した自分の判断を恥じることはないでしょう。なぜなら十分に安全を図り、自己責任の上、実行したからです。誰かに迷惑をかけたわけでもありません。
法律とは、人の世の諍いを抑止するための判断基準を示すものだと私は解釈しています。簡単に言うならば暴力の排除と私刑禁止です。六法全書には、してはいけないことの目安が書かれているものだと思います。それは逆に言うならば、しても良いことの権利の保障が記されていると思います。ですから法治国家に住む人は、法律を守らないと自由がありません。その代わり、してはいけないことをしなければ、あとはすべて、してもいいことです(グレーゾーンでの行動規範はその人の品格を表すという事でしょう)。これはわが子へのしつけと同じことですね。人は自らの心に自由であるべきです。人に迷惑をかけない限り、という但し書き付きですが。