前回の続き③2024年9月4日
前回の続き③
そして今年1年を締めくくる、私の旧年度の総決算は、7月に切り替わったばかりの日でした。
海に浸かり身体を大の字にして浮かべた途端、私の足先からは、いつものように砂がほどなく流れ出てきました。ところが、今回はかつてなかったほどの砂が、ドバドバと溢れ出てきたのです。
だくだくと、と表現するかダバダバと書くか、どぼどぼと書くか、まるでダ行のオノマトペを羅列するかの感覚で、とにかく例年になく大量の砂が、粘りながら流れ出てきたのです。もちろん、あくまで私がイメージとして感じているだけなのですが、実感はあるので実にリアルです。
私の身体の中に一体どのような排出すべき毒物があったのか、あるいは煩悩なのか、または自覚のない潜在的な痛みなのか押し殺している苦しみなのか、全く見当がつかない得体のしれないものが、淡いベージュ色の砂となって両足の先から、両手の指先から流れ出てきました。
身体を大の字にして浮かび、海にたゆたう私の携帯電話がお腹の上で鳴ったのは2日目の朝でした。表示された末尾の番号は0110です。どこかの警察署からの発信ですね。
???と思いつつ電話に出ると、それは3歳半年下の、弟の訃報でした。
実は昨年9月に大学研究室で倒れたという連絡を受け、弟が健康面で重大な問題を抱えていたことは重々承知しておりましたが。
私の弟は東京工業大学大学院で助教を長く務めておりました。詳らかではないのですが、認知心理学の分野では日本において草分けの存在だったようです。
男の兄弟にはありがちだと思いますが、学生の頃までは兄、弟双方の友人同士でもつき合いがあったりして、非常に楽しく過ごしていたのですが。彼がドクターを取得するためにアメリカに渡って以降は、もうお互いが仕事に忙殺され、昔のように会う機会も減ってしまいました。
ですから大人になって以降、兄と弟はそれぞれどのように人と成りを完成に近づけているのか、ということはわからない状態でした。久しぶりに会えば楽しい時間を過ごせた仲なのですが。
彼は独身で子どももおりませんでしたが、独り身の住まいとしては過剰に広い部屋に住まっておりました。つまり30代後半の彼は、きっと新たな家庭を作り子どもも持つ予定でいたのだと思います。何があったのか、手繰り寄せる術もありません。
彼は現職の教員でしたので、幸いにも葬儀には多くの大学教職員の方々や弟のゼミ生達が弔問に来てくださいました。ずいぶんと賑やかに送り出せたものだと思います。兄として、弟に顔が立った思いです。
昔々、私が初めてベビーベッドで弟と対面した日のことを鮮明に覚えています。かわいらしく愛おしい弟でした。さまざまな思い出がこみ上げてきます。でも弟が求める愛情と、兄として与えたい愛情には、どうもすれ違いが多かったように思います。
母は目に見える形で徹底して弟に愛情を注ぎましたので、私の弟への愛情も、私の本当の思いとは異なり屈折したものであった時もあったはずです。
今となっては時間を巻き戻すこともできず、冷たい磁器の中に入った弟に向かって悔いる気持ちに歯噛みすることしかできません。
訃報を聞き、ぷかりと浮かんだ海で、強烈な太陽に焼かれて目を閉じていると、まぶたを通して淡紅色の光を感じ、景色が移ろっていきました。それはぷかぷかと海にたゆたう私が、母の胎内に戻っていくような錯覚を私に起こさせました。母に、これまでにない最大限の感謝を捧げるとともに、弟の想いを私が抱いて、これから一緒に楽しく元気に生きて行こう、と決意した夏の始まりの日でした。
お盆明けから怪談のようでしたか? おわり