前回よりつづき②2024年9月18日
前回よりつづき②
自分が何を大事と考えるか、それがその人そのものであり、その人と成りを表していると思います。自分が大事と考えることに人は執着します。
何しろ自分が善と考える、あるいは正義と考える、または大儀であるとか沽券にかかわるとか、男がすたるとか、女の意地だとか(最近表現にかまびすしいですが)、自分が大事と考えること、それはすなわち言動や行動様式に反映されますし、人生においての選択はそこに基準が託されますから、重大事項です。その価値観に人は依存すると言い換えることもできます。
人は誰しも、何かに依存して生きています。私も依存が強い質です。弱い自分を自覚しています。人により依存する対象は、母親であったり、人であったり、物であったり、行為であったりと様々です。心の渇望を依存する何かによって満たすこと、その全体が、自らの心が希求する依存の実態でしょう。
自我を安定させるために人は何かに依存します。安定しない自我があるからこそ依存するものを求めるのです。ですから自我の安定した人は、外に何かを求めることなく、独立して完結した人格を有しているように思います。心理学の専門家なら詳細な研究の下、多くの反論や反証を提示してくれるこ とと思います。
なりたい自分になるために、人は多くの努力をします。努力により得られたことで人はある程度の満足を得ますが、最終的な目的地や到達点はどこにあるのでしょう。
私は昔からボディビルをしている人たちに興味があります。見ることが好きです。その昔、原宿のとある老舗ビルの地下にレストランバーがありました、(一昔前はシガーバーでしたが)もう半世紀近く前の話です。そこはボディビルダーたちのたまり場でした。
ませた中学生の私はバーカウンターの止まり木に肘をかけ、コーヒーしか飲めないのにそこに頻繁に出かけては、タンクトップに短パンの、うーんなんというか、出汁を吸い、茹ですぎてパンパンに膨らんだ厚揚げを身にまとったような異才の男たち(に当時は見えた)を観察しておりました。彼らの肉体美にかける情熱は激烈で、お互いのポージングを見せ合う光景は、興味がない者、もしくはその価値が理解できない部外者からすると、ある種の喜劇的情景に思えました。
なぜ私が一時期ボディビルダーに興味を持ったのか、当時はわかりませんでした。憧れたわけではないし、写真を勉強していた私が彼らの肉体美を積極的に撮りたいと思ったこともありません。ただただ観察していて飽きなかったのです。私が理解しえない価値観に、深く興味を覚えたのです。
※最近なにかと炎上しがちなので断っておきますが、私が個人的に抱く感想は私の私物です。この文章はボディビルダーを揶揄したり否定したりしたものではありませんし、それを目的としたものではありません。自己愛、依存、達成、充足に関する話です。つづく