東京という都市は2025年4月2日
東京という都市は世界に冠たる大都会であり、世界中から観光で訪れた外国人が、東京に住む人の規律性の高さと道徳心(ゴミが通りに落ちていない等)、お互いをリスペクトし合う人間性の高さ(譲り合う謙虚さ)などなど、SNSや動画での多くの発信を見るにつけ、(我々への買い被りも含めて)ありがたいことだと思います。
少し視点を変えてみます。神宮外苑の再開発について都知事は立ち入る権限がないといった極めて役所の長的な発言をして開発を容認しました。何しろ都民に限らず国民の多くがその環境を楽しむ明治神宮外苑の緑の相当数が刈り尽くされる計画です。都知事の権限で開発の制限をすることがもし可能でないならば都条例を改める法案を作成して議決すればいいだけの話で、どうも再開発の話に乗っかれば何かしらうまい話にありつけるのでは?と一般都民に邪推されることのないように広く告知すればよいと思います。
私は明治神宮の崇敬会会員でもありますので(母国の国策に殉じた英霊を祀る靖国神社の崇敬会会員でもあります)明治神宮の経済状況を好転させることに異論はありません。しかしながら、現状多くの恩恵を国民が享受できる環境を破壊してまでやるべき再開発なのかどうか、そこで試されるのは人間の叡智ではないでしょうか? もっと責任を追及するならば、事態の決定権者の教養です。
私は東京の空がどんどん狭くなっていくことを真に嘆いております。このまま規制を緩め続けることで、やがてマンハッタンのように摩天楼のビルが立ち並び、見上げた空にスリットのごとく射す一条の日の光を求めて、一平米あたりの地価が摩天楼のごとく高騰していくに違いありません(現状ですらその通りですが)。
それにしてもどうして東京の街並みが無秩序に破壊されていくのか、どうして古くて情緒があって品のあるものがなくなっていくのか、なぜそれを止める手立てがないのか、行政の品のなさを感じずにいられません。
私ごときが論ずることもおこがましいことですが、教育と教養は違うものだと思います。教育は大事です。学校教育は思考活動の根底を支えます。
一方教養とはなかなか学校教育では学べない領域です。学校教育で学べる教養は道徳に留まるかと思います。その道徳を学校で学べない義務教育はもはや亡国の始まりです。
私的に教養を定義するならば、文化、歴史、芸術を解することは条件の基本だと思います。そして教養人とは規律に対する自己指針を持つ人、すなわちプリンシプルがあること、自己の利益の前に大義を優先する人であることと私は勝手に解釈しています。そこにウィットに富み洒落が分かる人、などと定義を加えると益々難解になります。要するに教養とは教育を超えた境地に存在するものだと私は考えています。目指すにはあまりに孤高の存在ですが、それらを具現する人は、きっとあったかな愛に溢れた人だと思います。
では実際の話、教養深い人とは誰なの? と問われれば、直近では私は白洲次郎という人物が思い浮かべます。戦後アメリカにより占領された日本を国際社会に復帰させるために力を尽くした吉田茂元首相の懐刀が彼ですが、直近の教養人として1955年まで遡らないと行き当らないところに寂寥を感じます。
私は慶応会で育つ子たちが、人間力を陶冶して成長していくことを心から願い育てています。